呪術廻戦27話と吉野順平について【ネタバレ】
土曜の朝、毎週の日課でジャンプを買い、まず最初に呪術廻戦を読んでから、
ずっと心が停止したようにそのことばかりに囚われてしまい、咽び泣き、
ネットの海に散らばる沢山の人の感想を調べられるだけ調べて読んで救われた気持ちになったり悲しくなっりしました。
だから、いつかこれを読んで恥ずかしい想いをするかもしれない自分のためにも、ネット上に浮遊する塵の一つにできたらと思い、酔っ払った勢いでこの記事を書きます。
吉野順平は、自業自得だったのでしょうか。
真人についていった馬鹿だからこうなるのが仕方なかったのでしょうか。
確かに、愚かな子供なのだと思います。でも、わたしはどうしても彼をそうやって断罪することはできないし、今回のことを仕方のなかったことと思うこともできないし、物語の中に出てくる架空の少年だから、と割り切ることもできません。
何故なら、わたしは吉野順平と似た少年に出会ったことが何度かあるからです。
そしてわたし自身も吉野順平にとても似ている。少なくとも、思春期にはとても近しいメンタリティを持っていたはずです。
(おそらく)母子家庭で育ち、小柄で細身な体躯に生まれつき、馬鹿だと思っている同級生から酷いいじめを受けても上手く違う水槽に移ることができない、
そんな男子高校生が人並み以上に「力」と「父親」を求めたのは至極当然のことであると思うのです。
弱い自分、力のない自分、別の水槽に移ることもできない自分の心を守るためだけの理論武装、価値観、倫理観。
そんな彼の弱さも論理も全肯定し、いじめに、理不尽な世の中に対抗する「力」までくれた「父親」が真人だったのだと思います。
大の大人でもスピリチュアルや占いに頼るし、宗教のために平気で人を殺す世界で、順平も、当たり前に彼の、(父親という欠損まで埋めてくれる)神様に縋っただけ。
それが罪であるなら、世の大抵の人間は本質的には罪人だと考えます(勿論極論ですが)
27話を読んだ後、順平がなぜ虎杖に心を開いたのか理由を読み直して考えていました。
単純に虎杖がコミュ強だからとか、順平がいじめで心を閉ざしていたからとかではない理由がなんとなくある気がして。
初対面で、両親と会ったことのない話をする虎杖を見たときの順平の目が、その答えの一つに見えました。
親がいない、ただそれだけの、でも周りとは決定的に違う自分の責がない欠損を、そういう人間にしかわからない世界を共有できるかもしれない相手として、虎杖を認知したのではないかな、と。
これは家庭環境がアレだったわたし自身の経験と、わたしの告白に対して順平のような少年が向けた目の色を見た経験からの、憶測でしかありません。
でも、そう仮定するなら、両親がいないのに底なしに明るく、恨めしい気持ちを持たずに生きて、思慮深く、自分のことも人間として大切にしてくれる虎杖は、順平にとってかけがえのない存在だったことは疑いようがありません。
そして虎杖にとっても「もしも」順平の心を救えたのなら、、
世の中は常に理不尽で、因果応報は全自動ではなく、物語のように「もしも」が簡単に実現されない。
死ぬときはあまりにも呆気ないし、事故や殺人者は遺された人間の気持ちなんて考慮する筈がなく、ただただ立ち尽くして「なんで?」と怒り哀しむしかできない。
呪いは、人の想いの総決算であると同時に、世の中の理不尽そのものであり、関わったらまともに寿命で死ぬことなんてできず、巻き込まれた人間は「なんで?」との想いを世に新たな呪いとして遺し、そうして呪いが廻るのがこの世界だとしたら。
人を助けるために命を賭ける虎杖も、善人が少しでも救われてほしいと戦う伏黒も、ある意味では愚かな子供の一人であるはずで、
そんな風に真っ向から世界に立ち向かう気も起きないわたしは、ただただ彼らに救いがありますようにと、祈りながら次週を待つことしかできません。
そして、どうにもこうにもこの漫画をただの漫画としてフィクションとして非現実や他人事として簡単に割り切ることも今はまだできていない気がします。
「いちばん好きな映画は?」
「この作家なら何が好き?」
「わたしも、この曲好きだなあ」
友人、恋人、家族、知人、名状しがたい間柄
いったい今まで何度この手の会話をしただろう
人間を今ほど嫌いではなかった頃、たぶんわたしはこの問いの答えを完璧に理解することで、相手を理解できると勘違いしていた
当時はその自覚がなかったけれど、今思うとそうだ
だから、好きな人が好きなものには片っ端から手を出したし、同じものを好きな人のことはそれだけで信用してしまったし、好きな人と趣味が合わないときは深く傷ついた
わたしにとってこの世は昔から下らないもので、創作物とそれに対する感性だけが価値のすべてだった
同じものを近い感覚で好きな人とだけはわかりあえると夢を見ていた
わたしが人間を嫌いなのは、何をどうしてもわかりあえないからだということにも、今までわたしを悲しませた人たちがこの質問をクリアしていたことにも今更気付いた
質問をクリア、という日本語はおかしいのだけどわたしにはおかしくなくて、
この問いで同じものを好きだと判明するか、同じものが好きではなくても好きなものを好きな理由に少しでも共感できるかが、わたしにとってその相手とちゃんと人間として付き合うかどうかを決めるフィルターだった
烏滸がましいし、極稀に例外もあるけれど、本当にそうだった
まともに相手しない人間に何されようが気付かないんだから傷つくこともない
このフィルターが間違いだったとは思わない
ただ、このフィルターを通したところで他人とわかりあえることは一生ない
どんなに音楽の話をしても、文学の話をしても、映画の話をしても、他人とわかりあえることは死んでもない
Growthと、わたしが愛したヴィジュアル系の話
ヴィジュアル系バンドを好きになったのは中1の頃で、
それからすぐにRuvieを知って好きになった
四季折々が詰まった童話のような歌詞、儚くて幻想的なのに力強さすら感じる音、
細部にまでこだわった表現とアートワークでつくられる残酷で真っ白な世界
その世界を彩る優しい物語
こんなに何かを好きになったのは初めてで、
そんなバンドにまた出会えるのではないかとヴィジュアル系シーンを気にかけた年月
歌謡曲とは違うあの独特の浮遊感を求めてシューゲイザーに走ったこともあったけど
結局、好きな音楽は増えたけれど原点として求めるものは見つからなかった
なんとなく近さを感じていたバンドも今や殆どが解散してしまって
かといって、繊細でない私が近しいバンドや音楽をつくりだすことは不可能だし
これ!というものはもうこの世に現れないと完全に諦め数年
ミーハー心で見始めたアニメのOPで、偶然にも極めて近しいものを発見してしまう
TSUKIPRO THE ANIMATION(ツキプロ・ジ・アニメーション) PV Growth版
本当、あれー??!!!って感じだったんすよね。。。
正直な話、周りがどんどこ二次元アイドルにはまっていても自分だけははまらないと思っていたし、
そこには、二次元アイドルの曲=キラキラしていて明るくて私には無縁の曲、という偏見が根強くあったのでそこは本当に猛省しているんですが
そこからすぐにCDを買い集め始め、一番最初の「あれ?」が単なる勘違いではなかったことを完全に確信。したのがこの曲、ラダ・キアナさん
ひっくり返りそうだった。
ずっとヴィジュアル系シーンとかシューゲシーンばかり血眼で探してたのに、まさかこういう場所にあったなんて。
音楽だけじゃなくお話もよくて、そこからはもう沼。
よく、好きになったものは出会った時期がそれを好きになる時期だったのだ、と言うけれど、Growthに関してだけはいつ出会っていても好きになっていた確信がある。
だって、こんなに懐かしいんだもの。
勿論、RuvieとGrowthは全然別物だしそれぞれの価値がそれぞれにあるんだけど、
私の心象風景の中では占める位置がものすごく近くて、こんなに近しいものにはもしかしたらもう二度と出会えないかもしれないとすら......
なんにせよ、完全に諦めていたものが予想だにしないところから出てくるというのは、本当にびっくりした、としか言いようがないことで
後追いでCDを集めだしたらどの曲もよくて、どのお話もよくて、全員素敵で
お話に関しても、私がずっと探していた歪んだ愛情と優しさに溢れた美しい物語で
何かを純粋に好きだと思えることはそれだけで幸福だと実感する日々
何らかの理由でいつか離れる日が来るかもしれないし、
Growth自体が変わってしまうかもしれないし(経験上こちらのがありえそう)
ただ、愛おしい、懐かしい、という今ある気持ちを書き留めておきたくて
それまで二次元アイドルにはとんと無知だったわたしが、
Growthに出会えたようなこの社会の仕組みとそこに関わってる全ての人に感謝しかない
全員好きなんだけど、藤村衛は本当に愛情深くて優しくて、
それがつくられた物語だとはわかっていても、この人はどうしてこんなに、人よりも辛い思いをして生きてきたはずなのに、こんなに周りのものを愛して慈しんで大切にすることができるんだろうと思って毎日泣きそうになる
そのお陰で、ほんの少しずつだけれど周りの人に優しくできるようになった気がする
なんだかものすごくまとまりのない備忘録だけど、
何かを好きだという気持ちは、不可抗力で踏みにじられたとしても大切にした方がいいものなんだなっていうのは、すごく思っている
あと、ほんの少しでも興味を持ったらとりあえず見てみることも大事
そのうえで偶然が重なったからこそGrowthに出会えたのだなあと
出会えてすぐに当たり前のようにこんなにも好きになれたのだなあと
だから、今まで自分が大切にしてきたことを大切にしてきて良かったと心から思える
3次元に実在するわけではないけれど、私にとっては今まで見てきた3次元の大切なバンドたちと並ぶくらい、何年経っても思い出してたまにCD引っ張り出す存在
藤村衛が作曲して、Growthがつくりあげる音楽、4人の物語
これからもちゃんと大切にしていきたい
最後に、Ruvie知らない人がもしこの記事を見ていたら聴いてみてください
本当に、本当にいいバンドなので
2017~2018
2017年は、
ひとことでは表せないくらい、ひとつの項目についてのみ言及できないくらい、
いろいろあった年だった。かも
一人暮らしも始めたし、
ちゃんと社会人らしくフルタイムで働くようになったのも初だし、
男関係ではここに書けないくらいとんでもなく嫌な目に遭ったし、
数年ぶりにV系で面白いバンド見つけて定時ダッシュしまくって、
自分のバンドもまた始めたはずがすぐ終了してぶちぎれたし、
気まぐれで貯金をホストで溶かして馬鹿みたいに遊んで、
そんなこんなしてたらいつの間にかとある二次元アイドルにドボンしていて
こうして振り返ってみると体感よりいろいろなことがあったなあと思う
毎度のことながらすごく理不尽な嫌な目にも遭ったけど、
ふと思い返してみたらそういうときにだって優しい言葉をかけてくれたり、面白がって笑いにしてくれたりする友達がちゃんといて、情の深い他人に涙が出るくらい救われたこともあって、
結局人との縁にはかなり恵まれてなかったり心底恵まれていたりするらしい
人間は正直、好きではないのだと思う
好きではないし、好きな人以外には興味も殆どない
でも、私が好きだと思えて且つ付き合ってくれる数少ない稀少な人たちのことは、改めて大切にしていきたいなとか
そんなに時間が経ってないのに全部笑い話にできるくらいには飽き性
全部いい人生勉強だったな~~って感じで
何かと体調を崩してしょっちゅう病院にも通っていたはずなのに、毎日平和すぎて
こうしてみるとそう平和で退屈じゃない年だったようにも思えるんだけど、
それでも束の間の何もないときには退屈だと感じてしまうくらい飽き性
(だから意味もなく貯金をホストに溶かしてみよう!みたいな発想にも陥る)
だから2018年は本当もっと沢山面白いことを常に見つけられたらいいなって
穏やかで静かで平和な何もない日をありがたがれるくらいに
新しいこととか面白いことに首をつっこんでいきたい、2018年
「好き」と「好きだった」の間に横たわるもの / 時間と精神
解散したバンド、メンバーや音楽性ががらっと変わっていかなくなったバンド
バンドの終わりや大きな変化を沢山見てきた方のバンギャルだと思う
見れなくなったバンドも行かなくなったバンドも、そのときに好きで聴いていた音楽は変わらずにずっと現在進行形で「好き」なのだと思い込んでいた
つい数日前まで
シャッフル再生していたときに流れてきた、もう見ることのないバンドの曲が流れてきたとき、ああ私はこのバンドを「好きだった」と初めて確信した
10代の頃、必死な思いで縋り付くように聴いていた音や歌は、もう過去のものになっていて、あのときの感覚を思い出すための記憶装置に過ぎなかった
勿論、音とか曲とか単体で見たらやっぱり世の中の音楽の中ではごくごくごく一部の好きな音楽には間違いないのだけれど
「好き」と「好きだった」の間に横たわるものはあまりにも大きくて、
ざっくり言ってしまえばそれは時間であり、当時の感覚であり、何より現在進行形で必要なものであるかないか、ということなのだと
ほんの少し前までは、過去聴いていた音楽はどれも私にとって必要なものだった
だから、何年経っても好きな音楽は好きで、それはずっと変わらないのだと思っていた
でもそれは大きな間違いで、人は歳を重ねたり環境が変わったりする度に、必要なものがころころ変わっていく
変わっていくし、大半の場合、それは思春期と比べたら段々減っていってしまう
社会から与えられた生活とか、自立して生きていけることとか、メンタルの安定によって
事実、メンヘラのパターンとして一番テンプレートな境界性人格障害の女の子たちは、20代から徐々に症状が落ち着きはじめ、20代半ばになれば激減するという
安定する、といったら聞こえはいいが、それは感性の欠如に等しいのではないか
生きている心地がしない、と最近よく思う
それは紛れもなく不自由なく安定した、誰からも縛られたり苦しめられたりすることのない生活を手に入れたからに違いない
よって、必要なものはどんどん減っていく
ずっと好きなもの、必要なものが、あの頃好きだったものに変わってしまった
だとしたら、幸せとは何だろう
if
たとえば、あのときああ言ってたらとか、
あの人にちゃんと騙されてればとか、
何年も死んでいなければそれだけifが増える
別にたいして今までの人生に後悔なんてしてないけれど、
そういう二度と取り返せない手に入らないifにだけはずっと縛られているように思う。
やらない後悔よりやった後悔とはよく言うけど、なにかを選べば必ず選べないものが出てくるわけで、それはどんなに心がけて生きていても決して避けられないことで。
人はどうやってそのifを割り切って生きているんだろう。
私には未だにそれができない。
選んだ先にあったものよりも、選ばなかったもののことばかりを想う。夢に見える。その時間や空間に縛られ続ける。
何度寝ても覚めても夢から覚めない。
選ばなかった沢山の人やものや想いが、私の中から消えてくれない。
煙草
肌に押し当てられた日に、煙草を好きになった。
赤い断面が肌に触れ続ける感覚は、火傷とも、刃物で切るときの痛みとも違った。
殴られたり蹴られたりするときの悪意も感じなかった。
ただ気分が良くて、一本焼けきるまで続けてくれたらよかったのに。
煙草の断面が肌に当たって、もう何年前かも覚えてないそれを思い出した。
低い天井まで上ると空気中を旋回して、白く濁り匂いが充満すると、
白昼夢みたいに記憶が立ち現れては消え、辺りを包んでは溶けてなくなる。
火を点けるときの音、銘柄ごとに違う匂い、誤って肌に触れたときの感覚、言葉にできる特徴がどれも人の記憶に強く働きかける作用のあるものだということに、今日初めて気付いた。
だから、ずっと好きだったんだなあ。
何度嫌いな記憶が呼び起されても、きっとずっと好きだ、煙草。